八重がき神社  −高梁市内山下−
 
    −幕末の藩主・板倉氏の氏神− 
 江戸後期の城主・板倉氏の氏神で,板倉氏の肖像画,鎧,兜,宝剣などもおさめられていました。(現在は高梁市文化交流館に所蔵)。板倉氏は足利氏の流れを組み,勝重の時には,徳川家康・秀忠に仕え,京都所司代となりました。また,幕末の勝静(かつきよ)の時には,徳川慶喜のもとで老中首座をつとめました。しかし,戊辰戦争で新政府軍の標的となると,この地から各地を転戦し五稜郭に逃れました。赦免後は,上野東照宮祠官をつとめました。
正面鳥居2
板倉勝静(かつきよ)

本 殿

宝剣拵

板倉家歴代肖像画

銀箔押兎耳大角立物付兜
ぎんぱくおしとじおおつのものつきかぶと

赤黒片身替白糸威二枚胴具足あかくろかたみかわりしろいとおどしにまいどうぐそく

日の丸金箔押紺糸威二枚胴具足ひのまるきんぱくおしこんいとおどしにまいどうぐそく
(肖像画,鎧・兜の許諾:高梁市文化交流館)   
 
 社内にひっそりと建つ熊田神社(右下)
 幕府方として鳥羽・伏見の戦いに参加(大坂城で後詰)した備中松山藩が,玉島(備中松山藩の外港)に戻った時,すでに新政府軍は岡山藩を先鋒に玉島に攻め寄せる勢いでした。板倉勝静の親衛隊長であった熊田恰(あたか)は,自らの切腹と引き換えに部下の命と玉島の町を救いました。熊田恰は,玉島の熊田神社でも祀られています。

熊田 恰(あたか) 像
(許諾:倉敷市教育委員会文化財課)

社内にある熊田神社