方谷林公園  高梁市落合町近似
−町を一望する方谷の名の公園−

 山田方谷の偉業を彰し,高梁川の西岸に作られた公園です。ここからは,旧市街が一望できます。城見橋からのながめもよいですが,ここからもなかなか。ハイキングコースもあり,桜やツヅジ、サツキの名所にもなっています。
   
 「方谷」の名は,このほかに生誕地の備中松山藩領西方村(現・中井町)に「方谷園」,「JR方谷駅」など付けられています。(山田方谷画像:高梁文化交流館所蔵)
   
  現在,山田方谷の大河ドラマ放映を求める100万人署名運動が展開されています。(参考:「山田方谷マニアックス」さんのページをご覧ください)。 
  山田方谷の略歴 (1805-1877)
 方谷は,備中松山藩領西方村に生まれ,幼少の時から優れた才能を見せました。3歳の時の書が,高梁文化交流館に所蔵されています。5歳で新見藩の儒学者・丸川松隠に学び,20歳の時には士分に取り立てられました。その後の遊学で,京都では寺島白鹿に,江戸では佐藤一斎に学びました。一斎の塾では同門の佐久間象山をこえて塾頭となりました。帰国後の天保7年(1836)には、藩校・有終館の学頭となりました。その後は藩政に起用され,当時,破綻寸前だった藩の財政を再建しました。また,富国強兵の1つとして,長州の奇兵隊よりも早く「里正隊」を創設し,領内の農民の中からも兵を募り,西洋式砲術などの訓練を行いました。方谷のもとには,長州藩の日下玄瑞,久坂玄瑞,長岡藩の河井継之介らも訪れています。また,慶応4年(1868)の鳥羽・伏見の戦いの後,朝敵となった藩を滅亡から救うことにも尽力しました。明治維新後は,新政府からの招聘をすべて断り,郷土で子弟の教育に尽くしました。

方谷林から見た町の北半分(内山下・小高下方面)

方谷林から見た町の南半分(南町・ループ橋方面)
 
藩校有終館の前に立つ山田方谷(CG復元,参考:藤井義和氏による有終館復元模型)