山田方谷の略歴 (1805-1877)
方谷は,備中松山藩領西方村に生まれ,幼少の時から優れた才能を見せました。3歳の時の書が,高梁文化交流館に所蔵されています。5歳で新見藩の儒学者・丸川松隠に学び,20歳の時には士分に取り立てられました。その後の遊学で,京都では寺島白鹿に,江戸では佐藤一斎に学びました。一斎の塾では同門の佐久間象山をこえて塾頭となりました。帰国後の天保7年(1836)には、藩校・有終館の学頭となりました。その後は藩政に起用され,当時,破綻寸前だった藩の財政を再建しました。また,富国強兵の1つとして,長州の奇兵隊よりも早く「里正隊」を創設し,領内の農民の中からも兵を募り,西洋式砲術などの訓練を行いました。方谷のもとには,長州藩の日下玄瑞,久坂玄瑞,長岡藩の河井継之介らも訪れています。また,慶応4年(1868)の鳥羽・伏見の戦いの後,朝敵となった藩を滅亡から救うことにも尽力しました。明治維新後は,新政府からの招聘をすべて断り,郷土で子弟の教育に尽くしました。 |